人の顔
昨日、仕事復帰した。
皆、優しかった。
仕事場も、半日で帰れた。
でも、仕事は苦痛だった。
仕事とは、なんだろう。
仕事をするとお金がもらえる。
入院にもお金がいる。
それでも、それでもだ。
頼まれごとをされ、それを行って死んでいく。
それで良いと本で読んだ。
仕事は、そう考えた時、
頼まれていない、仕事は頼まれたが、
意味が分からない上からの依頼である。
何に使われ、どんな表情で行っているのかわからない。
ああ、そうか。
人の顔が見たいのかもしれない。
心の平静を求めて
なんだか、悟った風になったと思ったら、胃が痛くなった。ストレスだと思った。すると、不満がいっぱいでてくる。痛みで全身から汗がでる。もっと不満がでてくる。呪いのごとく「辞めてやる」と。ここを肯定的に心をもっていくことができるのならばいいのでしょうが、やれやれ、先はながいなあ。
まあ、こうやって、文章を書く状況へ帰ってきた分、鬱っぽく、湿っぽくズーっと考えていた昔より成長したのかなあ。
仕事とは頼まれごとをこなすこと、人徳を成すことらしいのですが難しいことである。
どのように考えていく中が重要なのはわかる。だが、染み出る何か(心の癖?)がすぐに忘れさせてしまう。
心が平静で、すべてを楽しみ、素直に頼まれごとを信じることができたならどれほどいいことでしょうか。
いつになったら、心の平安がやってくるのかなあ。
つぶやきに驚く
「すべてが美しいものでありますように。」
とつぶやいた。
びっくりした。
いつも、「つらいな」「苦しいな」が思わずつぶやく時はあったけど・・・。
この年齢になって何か変わってきたのかな。
やる気を引き出す方法
仕事にやる気がでない。
そんなとき、どうするかのセオリーは、
とにかく始めること。
それも簡単なものから。
すると、乗ってくる場合があるので、そのまま乗っかる。
でも、乗らないときはあって、やらなきゃいけないことがあるのにやらない。
結構、時間もないのにやらない。
そんな時にどうするかである。
まず、目の前の資料なり、画面なりをみる。
イメージで、それしか目に入らないように演じるのである。
電話もメールの目に入らないように演じるのである。
でも、電話にでなきゃいけないときが、ほとんどだったりする。
そんな時どうするかである。
こんどは電話だけしか目に入らないように演じるのである。
まあ、目の前のことに集中することなのだろうが、そんな仕事で切り替えられるわけがない。
よって、文字的に「今」そこにに「心」を合わせることを「念」というらしい。
マンガでも念能力というのがあったので(意味全くちがうけどね。)念能力ということで、遊んでみる。
もう仕事しないで、念能力開発するのである。仕事やる気にならないから遊びにしてしまうしかないだろう。
ビジネス書とスピリチュアルの結びつきから導く真の幸福
仕事の量が多くて、大変きつい状況です。
しかも人員が減っているところが恐ろしい。
人間関係もギスギスしてくる。
ただ、どんなときも、気持ちを幸せにしていくことはできる・・・。
どうも、ビジネス書もスピリチュアルの本も最近同じことをいっている。
起こることは起こること、それに対してどのような解釈をするかということが大事ということである。
つらいことも、「肯定的に解釈することができる」とあるのである。このときに持ち出されるのが仏教だったりするのがよくある。
で、どうなるかというと「それって、誤魔化しじゃない」ということである。
で、仕事がきついから、「それって、誤魔化しじゃない」という気力もなく、誤魔化しでもいいから、肯定的に解釈したら、手が動いた。
で、とりあえず、それを繰り返していくと仕事が終わっているのである。
その時「ああーなるほど」となってくる。心をコントロールとはこういうことだろうかと。
ここで「心をコントロールするということ自体がむなしいこと」ではなかろうか。私の心の素直さはどこにあるのだろう。心の真のやすらぎはどこにいってしまうのだろうと思うわけです。
ただ、実践していると、心の素直さと安らぎとは反しないことがわかるのである。
どういうことなのだろうか。
そして、ここで、小林正観の本ならやさしく、中村天風の本ならゴリゴリに伝えてくるのである。
私が思うところの「心」は、上記の著者の「心」とはそもそも違う「在り方」なのである。
自覚する「心」を「他」として飛び出さねばならない。私たちは「心」を超えていかねばならないとうことなのでしょう。
「明日は月曜日で仕事としては、予定も重いものが多く、きつい一日が確定している。」
という解釈を変えて明日を過ごしてみよう。実践してみよう。
紫陽花の花を合成しました。
